コラム「溶解 前編」

官能は精神を溶解させる。
SEXの快感。エクスタシーに伴う、あの蕩ける様な感覚は「溶解」そのものだ。
愛の言葉を重ねれば重ねるほど、個々の精神は明確な境界を描く。衣服を脱ぎ捨て、互いの裸体を強く合わせても、肉体は絶望的に二人を分かつ。しかし、肉棒と膣壁の薄い皮膚の擦れによって生じる快感が、生々しい滑りと共に、彼らの心の境界を溶解させていく。

70年代終盤、自販機本ブーム。
視覚に訴えるという手段を持って、主に男性に擬似的快感を与えた。読者は、一瞬ではあっても、現実と仮想の境界を見失うのである。大量に、同時に、起こったこの共通体験は、若者の性の意識に多大なる影響を与えたはずだ。「フリーセックス」などという刺激的な言葉が輸入され、苦笑の他無い様々な曲解を生んだのもこの頃でなかったか。

当時の自販機本を読見かえすと、驚くほど哲学的、思想的な文章に出会う事がある。
すでに学生を中心とした新左翼運動は、過去のものとなっていた。
が、しかし。その気分を引きずった一部のインテリ層、とりわけ闘争に挫折したかつての活動家達が、アンダーグラウンドの自販機本の業界に流れ込んだとの理解は間違っていないだろう。あきらかに、プロレタリア文学に源流を見とれるその文章を読めば疑う余地は無い。

既存の統治システム解体を試みた急進的左翼思想の残骸と、統治の根幹を成す道徳規範を溶解するエロティシズムが同居した、この奇妙な出版物は80年代初頭の爆発的ブームとなって、日本を席巻する。

表紙に“レイプ”を謳っていても、その半分のページがニッコリと微笑むモデルで埋められていた。そんな自販機本群にあって、緊縛作品はやはり亜流のキワモノ扱いだったハズだ。それでも結構な数のタイトルがリリースされている。だがその多くは、一見して縛りの甘さから、作り手がそういった嗜好の持ち主でない事をうかがわせた。マニアからすれば、表紙を見ただけで“ハズレ”とされ、決して購入に至る事の無い代物だった。

まさか。縛られた女性を、伝統や歴史に拘束された、あるいは米国に支配されている日本に重ね合わせ、「快楽によって内側から溶解させ、呪縛から解き放たれる様を描いて見せるのだ」との企画意図があったかはともかく。そのような元活動家が居たとしても、なんの不思議も無い。そんな時代であったと思う。

ブームが終焉を迎える80年代半ば。衰退の直接的原因であった当局の摘発強化に伴う「出せば片っ端からパクられた」状況も、なにも「猥褻」それだけの理由ではあるまい。「新左翼の残党狩り」、それこそが隠された真の目的であった事は容易に推測できよう。

だがその後も、時にホームビデオ、時にインターネットという強力な媒体を解して、そして2000年に入り、オタク文化を隠れ蓑にしながら、徐々に、しかし確実にエロは「溶解」という、その密かな企みを実現していくのである。

対する伝統的支配層にとって「性の乱れ」に端を発する規範の溶解は、由々しき事態だ。
なによりまず、統治の為の最小単位、「家」の概念が希薄となる。この現象は、ヒトの持つ集団への帰属意識を巧みに利用し、緻密に積み上げられたヒエラルキーを土台から崩す。
技術革新やパラダイムシフトのたびに、体制側からの封じ込めが行われるのはこの為である。ポルノ表現の肥大と萎縮の変遷は、すなわち当局の時々の意向に連動した、生々しい記録と言えよう。

性欲は元来、食欲や睡眠欲と同様、個人の意思では完全なコントロールが出来ない欲求だ。
国家はこれを逆手に取る。国民を支配する為には、「容易に守れない法律」をつくれば良い。反体制分子には、これをもって警察権力を行使する。もちろん、その前段階に周到なる用意を持って、道徳規範を作り上げる事は言うまでも無い。この場合の“道徳”とは、カントの言う道徳律とは全く別な社会便宜上の人造物である。
(現在も機能している独裁国家を観察してみれば分かる。彼らは例外なく「性」のコントロールに躍起ではないか。)

そして今年7月には、改正東京都青少年健全育成条例が施行される予定だ。
「刑罰法規に触れる性行為や近親婚、強姦などを不当に賛美・誇張」するマンガやアニメの描写を販売規制するらしい。はて、該当するエロ描写など、とっくに成人向けとされていたハズだが。

今は、女性向けの一般漫画がスゴイらしい。なんでも男同士の性描写有り、レイプ有り、近親相姦有り、という。どうやらリビドーは、今や男女の境も溶解させた模様である。

「子供の為」を大儀としながら、表現規制に直結しているこの条例の問題点は、すでに色々なところで指摘されているので、此処では書かない。
ただ、全共闘議長だった作家が、規制推進の側に居る事、その歴史の皮肉を大いに笑いたいと思う。

エロは、心を溶解させる。
権力は、志を溶解させる。