団鬼六先生との思い出

私にとって団鬼六先生と深く師事させていただいたのは、40年程前に渋谷の桜が丘に事務所があった時代です、故大古八郎さんに連れらて初めて訪ねたアパートの部屋には15人ほどのピンク映画の役者とスタッフでいっぱいでした、近々にクランクインする鬼プロ製作の本読みの最中でした。まだ師に紹介もないのに団先生は「おまえも読め」と台本を手渡すのでした、私は部屋の片隅へいき役者さんの本読みの熱のこもった声を聞きながら手渡された台本を読みすすむうちにあまりの面白さ物語の構成のうまさに驚きやっと師と仰ぐ人に巡り会えたと内心で大古八郎さんに感謝したー24歳頃と記憶するー当時まだ月刊SMセレクトなども発刊以前で先生のその後の殺人的な忙しさの前でしたのであんがい先生ものんびりしていた。鬼プロでの仕事は毎月のごとく制作され芳賀書店から発売されるモノクロの緊縛写真集「鬼の館」と資金が貯まると制作されるピンク映画の製作、2ケ月に一度ほどのピンク劇団の芝居ー2本だてのピンク映画の幕間に1時間ほどの芝居を幕前の舞台で上演するー大故八郎座長の劇団であるから当然ピンク喜劇で団鬼六脚本で演じられた、この喜劇の脚本が素晴らしく面白いものであり、先生は大古ちゃんに演じやすく書くのであるから場内はいつも爆笑の渦だ。初日の前には深夜に舞台稽古がありその席で先生は「喜劇はまじめに演じてこそ笑いがうまれるのだ、けっして客を笑わそうとしてはいけない」と深夜の劇場をうろうろしながら忠告するのであった。本来は私がこの脚本を保管しなければならなかったが現存していないのは非常に残念におもいます。個人的なおもいですがもし先生がシェクスピアーの翻訳をされたらどんなに面白く翻訳されたかとみはてぬ豪華本を思いほくそえむ、もしかすると師は浄土で将棋の駒片手にそんな作業もしていられるかもしれません。

本能=性欲が物欲に負けた日

緊縛新聞をご覧の皆様、お久しぶりです。
気楽に読んでいただけそうな思い出話を書かせていただきます。

私がSMセレクト誌を購入し始めた頃は、まだ学生だったのでお金がなく、年2回発行されていた写真集「秘蔵版緊縛フォト」まで買うことは出来ませんでした。
東京の古書店で大金はたいて購入した、2代目の76年7月号の「秘蔵版緊縛フォト」を見るたびに思い出す、忘れられない事件があります。
まだ20代半ばゆえ、溜まってくると悶々としてきて落ち着きがなくなり、そわそわする日々ばかりの年頃。
ついにはどうにも我慢できなくなり、新しいネタ(もちろん上質の緊縛写真)が欲しくて欲しくて、どうしようもなくなってしまった暑い夏の日でした。
狙いは、その頃住んでいた実家から遠い場所にあった、人のよさそうなおじさんが一人でやっていた古本屋。
そこに買いそびれた、その頃お気に入りだったモデルさんで、後に日活ロマンポルノの女優さんとして活躍することになる水島美奈子さんが載っている、76年7月号の「秘蔵版緊縛フォト」があるのを知っていたので、意を決して買いに行くことにしました。
小説SMセレクト75年4月号グラビア「羞恥に泣く19歳」に月原篠名で、SMセレクト75年12月号グラビア「期末試験」に本田綾子名で掲載されていた、女学生姿で縛られた姿がとても印象的な美人でした。
買いに行く道々では、セレクト誌にあった逆海老足吊りの別カットがあったら、そのページでフィニッシュしよう、などと実用的なことを考えながら、下半身の一部は硬度120パーセント、ひょっとしたらよだれすらたらしていたかもしれません。
他にもSM誌や写真集があったら、買えるだけ買ってやろうとかなりのお金も用意、それほどに買う気満々、そして残液感ゼロの一気放出を目標に出す気も満々で、鼻息荒く店の戸を開けました。
するとそれまではなかった、見慣れないレコード棚にまず目がいったのです。
その店は以前から本のほかに、レコードも置いてあってたのは知っていました。
しかし、店の隅に無造作に平積みにしてあって、レコード自体も私には興味のない、演歌や歌謡曲ばかりだったので、まともに見ることもなかったのでした。
一応ちょっとのぞいてみようと、洋楽のシングルコーナーを見て驚きました。
いきなり当時、レコード収集家としてのキャリアもスタートさせていた、私が捜し求めていた、ずっと欲しかった1枚のシングルが出てきました。
しかも200円と実に安い。
当時すでにプレミアがつき、マニアが血眼になって探しているレコードが、定価の半分でいいやと、適当に決めたとしか思えない安値で目の前に。
これはきちんと全部見たほうがいいと、汗だくになりながらも、はしからはしまでまでチェックを開始。
正直この段階で、あれほど愛おしかった、水島さんの緊縛姿はすでに脳裏から消えていました。
当時大好ファンだったフランスの美人女性歌手のレコードは、はじめて見る初期のものから後期のものまで10数枚ほどもあり、充実の品揃えに大感激。
さらに、これだけシングルを買っていた人なら、必ずLPも買っているに違いないと勘を働かせ、今度はLPの棚をチェック。
我ながらいい勘してました、大事に聞いていたと思われる、きれいなお宝LPも大量に発見。
なんだかんだで、結局シングルを50枚近く、LPも30枚ほどを買うはめになり、持参したお金は全てレコード代に消えてしまいました。
結局、当初の目的だった写真集もSM誌も1冊も買わずじまい。
何よりもレコードを探すことに夢中になりすぎ、店に入ってきた時の勢いはどこへやら、あれほどいきり立っていたものは縮こまってしょぼくれてしまい、悶々としていたやるせない思いまできれいに消え去り、お宝レコードを大量にゲットできた満足感で、すっかりすっきりと上機嫌になってしまったのでした。
意気込んで買いに来たのに、目的の写真集とSM誌の代わりに、大量のレコードを買って帰る羽目になったなんて、全く思っても見なかった結果で、お宝中古レコードの魅力が、SM誌や写真集への欲望に勝ってしまった、ある意味記念すべき日となりました。
実に恐るべきは、人様のものに対する底知れぬ欲の深さ。
まさしく生涯唯一の、本能=性欲(あるいは緊縛写真に対する情熱)が物欲に負けた日でした。
なお、その3日後、一度は収まったと思われた性欲は当然復活、今度は数冊のSM誌や写真集とともに、76年7月号の「秘蔵版緊縛フォト」も購入、帰宅後やっと残液感ゼロ状態といえるほどにすっきり出来たことは言うまでもありません。

キャリア35年様 投稿文

一期一会

SM誌や写真集を買うのはこの店と決めていた、おあつらえ向きに町外れの、おやじさんが一人でやっていた馴染みの店、どれどれと最新号(1979年4月)の巻頭グラビアを見てみる。
SMセレクト誌を定期購入し始めてからはや4年、23歳のときでした。
「危険な誕生日」というタイトルの、最初のページを見たとたん、心臓が止まりかける。
素早く反応した下半身の一部は、これまで経験したことのないくらいの硬さに。美人だ!それも、悪いがこの手の本には全く似つかわしくない、私好みの類まれな正真正銘の美人だ!
そんな美人が、これまた私好みの、ブラジャーが透けて見える、清楚な白いブラウス姿で縛られている。
すごい!ドキドキしながら次のページへ。

うっ!思わず腰が引ける。
なんなんだ、このヒモみたいないやらしい下着は。
きわどすぎる。

3枚目。
あうっ!さらに腰が引ける。
こんなふうに柱に縛りつけられては、相手のされるがまま、黒のガーター姿というだけでもたまらないのに、想像以上に胸も大きい、ホントに我慢できないかもしれない。

4ページ目。
あがっ!もう下半身は限界だ!
腰が引けすぎて、変な姿勢になっている。
こんなおいしそうな尻をこちら向けられたのでは、今にもズボンが破れてしまいそうだ!
5ページ。
ちらっとみただけで、いかん、これ以上の立ち見はホントに危ない、店先で暴発させてしまったら大変だ、すぐさまおじさんのところへ行って買うことにする。

このように高園たえ子(当時は伊吹葵)さんとの出会いは、本当に店先での下半身暴発の危険と隣り合わせの、それはそれは大変衝撃的なものでした。

数少ない資料によると、地方の旧家の娘さんで、一度付き合った男性に軽く縛られたのがきっかけとなり、緊縛に興味を持ち、セレクト誌に応募してきたという、素人のモデルさんとのこと。
本当にこんな美人がよくぞ、と今でも思います。

そしてなによりも、この時のセレクト誌の撮影以後は、全く姿を見せずにフェイドアウト、1回きりの緊縛写真撮影、まさしく一期一会の出会いだったモデルさんとして、ことさら強く印象に残っています。
同じように地方の大地主の娘さんで、時代劇で縛られ折檻される女郎の姿が忘れられず、体のうずきに負け、モデルとして応募してきた、という似たような経緯を持つお嬢さん、雨宮亜紀さんが、その後本物のモデルさんになって数多くのグラビアを残し、ビニ本や映画にまで出演したのとは、本当に好対照です。

初めての撮影なのに、きちんとそれなりの表情までつけることができているのには感心。
しかし、よく見てみると、途中下着姿になってからの後ろ手の縛りが、肘が直角90度から、両腕を下におろした楽な型になり、少々緊縛感が緩くなっていたりします。
そしてなんといっても、私も先生も大好物の「吊り」の写真が全くありません。
彼女は、かなり体が硬かったということもあるようですが、なんといっても緊縛写真撮影自体が初めて、素人の彼女には、それなりの限界があったことが伺えます。

しかし今振り返ってみても、まずたえ子さんが下半身につけていた、細いヒモのような黒い下着、胸につけた白いブラジャーとの対比でも、とにかくやたらときわどく、いやらしく、とてつもなくヒワイに見えて、これは一度見ただけで、忘れられるものではなかったです。
このヒモみたいな下着は、本人にとっても恥ずかしかったようですが、とにかく私も見たのはこのときが初めてで、印象は強烈。
まさかこんなエロい、いやらしい下着が、多少かたちは変わったとはいえ、Tバックと呼ばれて、ごくごく普通の女性も身につける日が来ようとは、夢にも思いませんでした。

グラビア5ページ目の写真は、私の緊縛写真のツボをつきまくりで、いかにもきつそうに括られた手首、二の腕に厳しく食い込む縄、上半身を厳しく縛める幾重もの縄、顔を畳につけ、お尻を高く突き出して、恥辱に耐えるかのような険しい表情。
本当に何度見てもたまりません。
この1枚の印象があまりにも強烈過ぎたせいか、かつての彼女とプレイに興じた最後は、必ずこのポーズでバックから決めてフィニッシュする、というのが、私の定番になってしまったくらいです。
この1枚については、次のセレクト誌5月号の「読者の声」欄で、ある方が「抜群の1枚」として褒めておられたので、当時から多くの方が、この1枚の素晴らしさに魅せられていたのは間違いありません。
残念なことに、先生の旧HPや現在の緊縛桟敷になって、旧未発表原稿として、たえ子さんの未発表画像が公開された時には、期待していたこのカットの前後の画像も、このカット自体も含まれていなかったのでした。

写真集で初出となった、同じ日に撮影されたと思われる、赤紫のTシャツに白のスカートの写真は、わずかですが公開されましたが、これも写真集にあった浣腸シーン関連のものが出てきてません。
さらに当時、SMセレクト誌に載っていた「撮影同行記」に書いてあった、撮影最後に撮られたという、赤ちゃんをだっこして、おしっこをさせているようなポーズというのもまだ公開されていません。
限界を知らない欲張りなファンは、決して来ないかもしれない、そのいつの日かを今日も夢見ています。

最後に、かねてからお尋ねしたかったこと、これまた「撮影同行記」にあった、柱に縛りつけられた葵さんの姿に興奮した杉浦先生が、写真を撮るのも忘れて、葵さんに皮をむいたバナナを、ペロペロといやらしく舐めるように食べさせようとした、というのは本当のことなのでしょうか。
想像するだけでワクワクしてしまいます。