放課後の向うがわⅡ-11


「ほら理事長。
 満たんになりましたよ。
 特製プール」
「助けて……」
「泳げるんでしょ?
 スキューバダイビングとかも、なさるんじゃなくて?」

 理事長は、懸命に首を振ってい
 それを楽しそうに見下ろしてた先生は、笑顔のまま振り向いた。

「美里、ウィンチ。
 ほら。
 水道はもういいから、ウィンチのところに行って。
 そう。
 ハンドルを握って。
 そう。
 回して。
 どうしたの?
 さっきやったでしょ。
 出来ないの?」

 出来るわけがない。
 逆さ吊りの理事長の真下には、満々と水を湛えた水槽。
 逆立った髪が、水面に届いてる。

 ロープを緩めれば、理事長の頭は、水中に沈む。
 あけみ先生は、よっぽど恨みが溜まってたみたいだけど……。
 わたしは、面接で一度会っただけだもの。

「ダメな子ね」

 先生は身を翻すと、靴音を響かせてわたしの傍らに立った。

「もう一度、講義するわよ。
 さっきみたいに、時計回りにハンドルを回すと……。
 巻き上げられるわけ。
 ほら、カチカチ音がしてるでしょ。
 これは、メカニカルブレーキが働いてる音」

 理事長の身体が、荷物みたいに吊りあがった。
 水槽からは離れたわけだけど……。
 逆に、怖さを感じる高さだった。

「理事長。
 暴れないでくださいね。
 その位置で縄が切れたら……。
 たぶん、頚が折れます」
「……、たすけて」
「顔が赤いですよ。
 頭に血が昇ったのかしら。
 今、冷ましてさしあげますからね」

 ウィンチのハンドルに掛かった先生の手が、ゆっくりと逆向きに回る。

「ほら、こっちに回すと、音がしないでしょ。
 そして荷物は……。
 ゆっくりと下りる」

 理事長の髪が、再び水面に届いた。
 理事長は、腹筋を使って上体を持ち上げた。

「まぁ、素晴らしいエクササイズですこと。
 でも、理事長。
 さっきも言いましたけど……。
 このロープ、エクササイズ向きじゃありませんの。
 無理な荷重を掛けると、切れますわよ。
 それに……。
 そんな姿勢、いつまでも続くわけないでしょ」

 理事長の腹筋が、プルプルと震えだした。

「あぁ」

 止めてた息が吐き出されると同時に、理事長の上体から力が抜けた。
 折り畳まれてた身体が、真っ直ぐに伸びた。
 あけみ先生は、その瞬間を逃さなかった。
 指揮者が演奏開始のタクトを振るように、大きく腕が回った。
 刹那……。
 理事長の頭は、水槽に沈んだ。

「ぶぶ」

 理事長の口から漏れる泡が、先を競うように顎を転がり、水面に飛び出した。
 髪の毛が水槽いっぱいに広がって、顔を隠してる。

 でもその顔は、苦痛に歪んでるに違いなかった。
 それを思うと、お腹が絞られるように痛んだ。
 思わず、あけみ先生を見た。
 あけみ先生の顔には、微笑みが貼り付いたままだった。
 ほんとに殺してしまうんじゃないか……。
 裸のお尻に、鳥肌が立つのがわかった。

「先生!」

 わたしの声は裏返ってた。
 でも、先生は答えない。
 代わりに応えたのは、理事長だった。
 もちろん、声は出せない。
 でも、全身で身じろいだ。
 逆さの身体が、少しだけ回った。
 海藻みたいに揺らめいてた髪が、傍らに流れ……。
 表情が見えた。
 両目をきつく閉じ、頬には苦悶の筋が刻まれてる。
 綺麗なルージュのあわいから、食いしばった歯が覗いてた。

 もう、吐き出す泡は残ってないようだった。
 身体が回ったせいで、後ろ手に縛られた手首の先が見えた。
 指先が、虚空を掴むように開いてる。

 指先は今にも、花が凋むように閉じそうに思えた。
 もう一度先生を見返った。
 そのタイミングを待ってたかのように、先生の腕が回った。
 メカニカルブレーキの音が、カチカチと響いた。

「がぶっ」

 水面に上がった理事長の首が、人とは思えない声をあげた。
 縛られた上体を懸命に膨らませ、空気を貪ってる。
 ルージュを引いた口は大きく割れ、上歯の奥には、口蓋が洞穴のように見えた。

 人は、空気が無いと生きられない……。
 そんな当り前なことが、まざまざとわかった。
 背中から覗く手の平は、目一杯開いてた。

「理事長。
 苦しくても、水を飲まないのはさすがですわ。
 ま、逆さじゃ、飲みにくいでしょうけど。
 あ、タイヘン。
 忘れてた。
 写真撮るの」

 あけみ先生は、大げさな身振りで、作業台のカメラに視線を振った。

「美里、ここ代わってくれない。
 写真撮るから。
 どうしたの?
 出来ないの?
 ほら。
 わかったわかった。
 そんな顔しないの。
 それじゃ、あなたが撮ってちょうだい。
 理事長の、一世一代の晴れ姿。
 理事長。
 いいですか?
 もう一度下ろしますわよ」
「い、いやぁぁぁ」

 あけみ先生の腕が、大きく回った。
 上半身は白のオーバーブラウス。
 でも、下半身は剥き出し。
 お尻の割れ目には、縄が渡ってる。
 そんな格好で、踏ん張るように膝を割り、ハンドルを回してる。
 滑稽に見えてもいいその姿は、わたしには恐ろしく思えた。

「早く!」

 あけみ先生が振り向いた。
 回った髪が頬を叩いた。
 射抜くような視線だった。
 わたしは、作業台のカメラを持ちあげた。
 そう。
 持ちあげるって言葉がふさわしいほど、そのカメラは重かった。
 金属の部品が、ぎっしりと詰まってる感じ。

「いい。
 これは、写真部の入部試験よ。
 上手に撮ってちょうだい。
 シャッターがどこか、わかるわよね?
 上じゃないのよ。
 前っかわ。
 そう、それ。
 赤いボタン。
 あ、そう言えば、撮ったことあるのよね。
 向こうの世界で。
 でも今日は、フラッシュ使うから、もう一度復習ね。
 なにしろ、一回焚くごとに、電球がひとつずつ潰れちゃうんだから。
 フィルムが出てくるまで、シャッターボタンは押し続けなきゃダメよ。
 わかった?
 じゃ、早く。
 理事長のそばで構えて。
 もう、御入水だから」
「い、いやよ。
 助けて。
 助けて。
 あなた、先生をなんとかして」

 理事長が首を持ちあげ、わたしの顔を縋るように見た。
 形のいい鼻翼が、瀕死の動物みたいに羽ばたいてた。

「ダメよ、理事長。
 この子は、わたしの助手なんですから。
 それに“あなた”なんて、まだ名前も覚えてらっしゃらないの?
 相変わらず、ご自分にしか興味が無いんだから。
 でも、人のなすがままにされるってのも、案外気持ちいいでしょ?
 だんだん、酔ったようになって来ません?
 さ、下ろしますよ。
 美里、構えて」

 理事長の首が、観念したように真下に垂れた。
 背後に、巻き起こる風を感じた。
 ってのは大げさだけど……。
 あけみ先生の腕が、大きく回るのがわかった。
 理事長の頭が、水槽に沈んだ。

「シャッター!」

 慌ててカメラを構え、ファインダーを覗く。
 小さな窓の中に……。
 不思議な水族館が見えた。
 理事長の顔を覆うように、髪が揺らめいてる。
 背中から出た手の先で、人差し指だけが、何かを指し示すみたいに伸びてた。

「何してるの?
 死んじゃうわよ。
 ほら、シャッター!」

 わたしは、慌ててボタンを押し下げた。
 フラッシュが発光した。
 小さな天体が爆発したみたいだった。
 あたりをほんの少しだけ明るくして、電球は潰れた。
 この一瞬の明るさを灯した電球は、もう生きてないんだ。
 なんだか切なかった。
 わたしは、電球の命を無駄にしないよう、一心にシャッターボタンを押し続けた。

「美里の後ろ姿、もうひとつのカメラで撮りたいくらい。
 下半身だけすっぽんぽんで、カメラを構える少女。
 すっごい扇情的。
 あ、もうフィルム出たわね」

 目元からカメラを離すと、背後でカチカチと音がした。

「ぷ、ふぁぁ」

 萎んでた袋が、一気に膨らむような音がした。
 理事長の顔が、水槽から上がってた。
 音を立てたのは、理事長の肺だったみたい。
 震える唇のあわいに、食いしばった歯が見えた。
 首元から流れる水滴が、頬のファンデーションを転がってく。
 背中に回った手の先で、5本の指が、何かを求めるように開いた。

「そうとう苦しかったみたいね。
 美里がもたもたしてるからよ」

 あけみ先生は機械を離れ、わたしの傍らに立った。

「でも、ほら。
 あのお腹。
 スゴいわよね」

 あけみ先生の指差す先で、理事長は全身で呼吸してた。
 お腹に力が入るたび、脇腹を縦に走る窪みが浮き出た。
 渓谷を刻んだ腹筋が、立体の地形図みたいに見えた。


本作品のモデルの掲載原稿は以下にて公開中です。
「結」 「岩城あけみ」

《説明》
杉浦則夫の作品からインスピレーションされ作られた文章作品で、長編連載小説のご投稿がありました。(投稿者 Mikiko様)
本作品は7/13まで連続掲載、以後毎週金曜日に公開される予定となっておりますので、どうぞお楽しみに。
前作を凌ぐ淫靡と過酷な百合緊縛!「川上ゆう」さん、「YUI」さん登場予定作品です。
時を越え、再び出会った美里とあけみ。現在に戻った美里は、さらなる花虐へと誘われていく…。